青春シンコペーション
第6章 誘拐犯はお父さん!?(2)
美樹と彩香はデパートで買い物をしていた。
「あら、このピンクのドレス、美樹さんに似合いそう」
ショーウインドーに飾られているイブニングドレスを見て彩香が言った。
「円形に広がるスカート……。ダンスパーティーとかだったら素敵でしょうね。でも……」
美樹は少しだけうっとりと見つめたが、すぐに視線を逸らして俯いた。
「だってダンスはなさるのでしょう? この間、ハンス先生と踊ってらしたじゃない?」
彩香が言った。
「あれはハンスが……。でも、ぜんぜん駄目よ。一方的に彼がリードしてくれてただけだもの」
「あら、女性はそれで大丈夫よ。殿方のリード次第ってところも大きいんだから……」
彩香の言葉を軽く手で制して、美樹は奥のマネキンに目を移した。
「彩香さんだったら、こっちの青いドレスが似合いそうね。シックで品のいいデザインだし、リボンのアクセントが洒落てるわ」
「ええ。悪くないわね。ちょっと試着してみようかしら?」
「いいんじゃない? きっと素敵よ」
彩香はそのドレスの品質を確かめてから言った。
「美樹さんもそのドレス着てみたら?」
「え? でも……」
美樹が戸惑っていると店員が近づいて来て、それらの衣装を素早く外し、二人を試着室に案内した。
「まあ、お二人共、とてもよくお似合いですよ。まるで誂えたみたいにぴったりですわ」
店員が褒めそやした。
「そうね。あと真珠の髪飾りとポーチがあれば見せてくださる?」
「はい。お嬢様。すぐにお餅致しますね」
店員はにこにこと品物を取りに行った。
「わたしはこれにするわ。美樹さんは?」
「うーん。確かに素敵だけど、やっぱりわたしにはもったいないわ。ほんとに着る機会がないんですもの」
美樹は微かにため息をついて言う。
「残念ね。とても似合ってらっしゃるのに……」
彩香はそう言ったが、美樹にとっては衝動買いするには高過ぎる金額だった。彩香はそこで数点の買い物をした。
それから、彼女達はランジェリー売り場へ立ち寄った。彩香がそこで余分な着替えが欲しいと言ったからだ。
「あら、これってわたしのと同じだわ」
美樹が目に留めたそれを見て彩香が言った。
「まあ、センスがいいのね。そのブランドはわたしも好きよ。デザインもフィット感もお気に入りなの。わたしも今日はこれにしようかしら?」
彩香が品定めをしている間、美樹はぼんやりとそこに陳列されている商品の値札を見た。(これってこんなに高い物だったんだ)
そのランジェリーはハンスがプレゼントしてくれた物だった。
(そういえば、彼って自分が着る物は自分で買って来るし、時にはわたしの物も……。それって……)
しかし、美樹にはわかっていた。ハンスには悪気などないのだ。彼女が選んだ物が気に入らないということではないし、自分に合わせることを強要している訳でもない。ハンスにとってはそれが普通のことなのだ。だから当然、美樹にも同じレベルの商品を買って来る。恐らく子どもの頃から自然と身についている。ただそれだけのことだ。
(わかってる。でも……)
その下着をハンスにもらった物だということは彩香には黙っていることにした。要らぬ誤解をされても面倒だし、妙な趣味があると思われても困るからだ。
「それにしても……」
美樹はふと井倉のことを思い出した。ここへ来る前、車の中から彼を見た時、女の子と楽しそうに話していた。彩香は何も言わなかったが、何処となくピリピリとした空気を感じた。しかし、デパートの中へ入ると、彩香はことさらに明るく振る舞った。
「ねえ、あのネクタイ、ハンス先生に似合いそうじゃない?」
「え? ええ、そうね」
濃紺の地にグラデーション掛かった小さな星が散っている。
いかにも彼が喜びそうなデザインだった。
「そうね。でも……」
(2万8千円か……)
美樹は躊躇いがちに手を引っ込めた。
「手頃な値段ね。これ、わたしから先生にプレゼントしても構わないかしら?」
「え? ええ」
「美樹さんにも何か差し上げたいわ。さっきのドレスでも構わないのだけれど、着る機会がないとおっしゃったから……。どうせなら実用的な物がいいわよね。ああ、このポーチ。見た目はすっきりしてるのに、中はゆったりしていて使い勝手がいいのよ」
「そうね。ちょっとしたお出掛けにいい感じ」
(でも、5万8千円はちょっとね……)
美樹は曖昧に微笑んだ。
「ね? 気に入った? ちょっと待ってて。今、お会計して来ちゃうから……」
「え? でも、彩香さん、それって……」
(きっと生まれてから一度もお金の心配なんかしたことないんだろうな、彼女……)
ハンスと同じ。悪気はないのだ。わかっている。しかし……。喉元まで湧き上がって来た小さな異物を、彼女はなかなか咀嚼できないでいた。
それから小一時間ほどして二人は黒木に迎えに来てもらって家に帰った。
家ではまだ、ハンスが子ども達のレッスンをしていた。驚いたことに、そこにフリードリッヒも加わっている。井倉は、レッスンの終わった子ども達にキャンディーを配っていた。
「あ! お帰りなさい、美樹さん。それに……彩香さんも……」
階段を上り掛けている二人に近づいて彼は言った。
「荷物、重そうですね。僕が持ちますよ」
「いいえ。結構よ」
彩香がぷいと横を向く。
「あの、美樹さんは……」
「大丈夫よ。わたしのは対して重くないから……」
そうして二人が行ってしまうと、井倉は一人、階段の下に取り残された。
「お兄ちゃん!」
リビングから子ども達が呼んでいる。
「ああ、ごめんね。今行くよ」
そう返事をすると彼はそちらへ戻って行った。
そして、子ども達のレッスンが終わるとフリードリッヒが言った。
「なるほど。君はいつもそうやって子ども達に音楽への関心を向かわせているのか」
「別に無理にそうさせている訳じゃないよ。彼らが自由意思でそうしてるんだ」
「だが、君がいなければ始まらない。そうだろう?」
「そうかな?」
「そうさ。私も大いに参考になった」
フリードリッヒはやたらとハンスの背中や肩を叩いてはうれしそうに喋りまくった。
「先生方、お茶をお持ちしました」
井倉がトレイにグラスを乗せてやって来た。
「ああ、井倉君、大事な話があるんだ。彩香さんも呼んで来てくれないかな?」
ハンスに言われ、彼は急いで階段を上った。
二人がやって来ると、早速ハンスがその話を切り出した。
「君達には、今日から特別カリキュラムを行ってもらいます」
「特別……?」
井倉はズキリと胃が痛んだ。ハンスが特別カリキュラムだと言うからにはそれ相応の難易度がある。恐らく、これまでにないようなハイレベルな要求をして来るに違いない。井倉は覚悟を決めた。
「井倉君はフリードリッヒに、彩香さんは僕にレッスンを受けてもらいます。それぞれの課題をクリアできるまで継続すること。わかりましたか?」
「はい」
二人は素直にそう返事した。
「わたしは、初めからそのつもりでした。ハンス先生に習うことができて光栄ですわ」
彩香が言った。
「僕も、ショパンコンクール優勝のヘルバウメンから教えていただけるなんて、信じられないくらいにうれしいです。どうぞ、よろしくお願いします」
井倉も彼に頭を下げた。フリードリッヒは満更でもなさそうな顔をして言った。
「私のレッスン、厳しいです。付いて来られますか?」
「はい! 必ず付いて行きます」
井倉が応じる。
「では、早速レッスンに取り掛かりましょう。彩香さんは僕と地下室へ。井倉君はここでフリードリッヒにレッスンを受けてください」
4人はハンスの指示に従ってそれぞれの部屋に分かれて行った。
「では、井倉君、これを弾いてみてください」
フリードリッヒが楽譜を広げた。それはハノンだった。毎日練習している。ピアノの基礎練習の一つである。
(バウメン先生は何故……?)
腑に落ちないまま、彼はピアノの前に座った。
「では、どうぞ。弾いてください」
フリードリッヒに促されて、井倉は鍵盤に指を置いた。
「駄目!」
いきなり形を直された。
「は、はい」
彼は何とかその形を崩さないように注意しながら弾き始めた。が、1往復もいかないうちに、その手を止められた。
「この指」
それは井倉にもわかっていた。
(左の薬指……。どうしても中指の動きに引きずられて鈍くなる。それでなくとも、もともと4番、5番の指の力は弱い。だから、それを強化しようと頑張って来た。でも……)
「メトロノームを使いましょうか」
フリードリッヒが言った。そして、何度も同じところを繰り返す。
「そこ、リズムが遅れています」
「はい」
バウメンは姿勢や手の形はもちろん、指の上げ下ろす角度まで徹底的に直させた。30分掛けて1ページも進まない。それだけで指が硬直した。レッスンのあと、井倉がそっと手を摩っていると、彼が言った。
「少し冷やした方がいい。痛いということはポジションが間違っているからです。余分な負荷が掛かっているから痛みが出る。続きはまた明日やりましょう」
ドイツ語の説明。しかし、黒木が通訳するまでもなく、井倉にはそれがわかっていた。わかっていながらそれができない自分に腹が立った。
「ありがとうございました」
井倉は頭を下げた。が、その瞳には悔し涙が浮かんでいた。
一方、彩香は自信満々にピアノの前に座った。そして、ラフマニノフの楽譜を広げようとページを開いた。その楽譜をハンスが取り上げてテーブルに伏せた。
「今日は本は使いません」
「では、何を弾いたらいいのですか?」
怪訝そうな顔をする彼女にハンスは微笑して言った。
「あなたの曲を」
「え? それはいったい……」
「即興を弾いてください」
「でも……」
彩香は戸惑った。
「少しだけ時間をいただけますか?」
「駄目です。すぐに弾いてください。さあ、鍵盤に手を置いて」
言われて彼女はそうしたものの、なかなか最初の一音を弾き出すことができない。
「難しく考えないでいいんです。遊びでやっているようなことで構いません。きちんとした曲になっていなくても、今の心のままを音に変えて表現してみてください」
「そう言われてもわたし……」
彩香は困惑するばかりだった。
「即興で弾くことも大事ですよ。やったことありませんか?」
「即興と言っても結局は作曲しているのだし……。わたしは作曲家になりたい訳ではありません。それよりも、既成の曲を完璧に弾くことが大事なんです」
彩香は頑としてそう言った。
「とにかく音を出してみればわかります。今の気持ちがそのまま反映して聞こえるでしょうからね。さあ」
ハンスがその手を鍵盤に押し付けた。微かに沈んだ白い鍵盤からすっと空白の音が漏れる。
「何故躊躇っているんです? まさか一度もピアノで即興を弾いたことがないって言うんじゃないですよね?」
「即興を弾いたことは……ありません」
彩香はきっぱりと言った。ハンスはフーッと軽く息を漏らした。
「既成の曲以外に何か弾いてみたことは?」
「ありません」
彼女は首を横に振った。
「じゃあ、作曲をしたことは?」
「授業でなら……」
「即興の授業はないんですか?」
「すべて事前に告知されますから……考える時間は十分にありました」
「それって楽しくないでしょう?」
ハンスは呆れたように訊いた。
「どうしてですか?」
彩香は逆に質問した。
「それじゃ、あなたは何のためにピアノを弾くですか?」
「これまでに偉大な作曲家が残してくれた曲を忠実に再現するためです」
その返答にハンスは笑い出した。
「あなたには無理ですよ」
「何故です?」
彼女は憤慨したような目で彼を睨んだ。
「楽譜に書かれたことが曲のすべてではないからです。前にも言ったと思いますが、それなら、人間がピアノを弾く意味がないんです。精巧なロボットで十分でしょう?」
「何故ですか?」
「それがわからないから今、あなたはここにいて、僕のレッスンを受けているんでしょう? フリードリッヒも、僕とまったく同じ考えでしたよ」
「まさか……? だって、バウメン先生は褒めてくださいました」
「彼があなたを僕に預けると言ったんです。欠けているものを補うためにね」
「そんな……」
それを聞いて彩香は愕然とした。
「だから、僕には責任がある。あなたの欠けている部分を補う責任がね。さあ、弾いてください。僕はいつまででも待っていますよ」
それから1時間。彩香達は地下室に降りたままだった。
「あの二人、遅いですね。私にはレッスンは30分と言っていたのに……」
出された紅茶をすすりながら、フリードリッヒが言った。
(そうだ。遅過ぎる。ただのレッスンにしては……)
密閉された地下室の中で何が行われているのか。
井倉は不安になった。昨夜のハンスの行動を見ると彼は時として衝動的になる傾向がある。ハンスのことは信用している。しかし、若い女性と二人きりとなれば、彼もまた男なのだということを意識しない訳にはいかなかった。
(でも……有り得ない。先生に限って……)
井倉はそのイメージを打ち消そうと努力した。
(いくら地下室で二人きりだといっても、いつ誰が降りて行くかわからないんだ。しかも、上には美樹さんだっている。有り得ない。そんなこと……。絶対に有り得ないのに……。どうして僕はそんなことを考えてしまうんだろう? でも……)
井倉は落ち着かなかった。そこへ、突然、扉が開いて二人が出て来た。
「あ、彩香さん、お疲れ様でした。お茶でもどうですか?」
しかし、彼女は井倉を避けるようにさっさと階段を上って行ってしまった。
(どうしたんだろう? 何だか様子が……。少し涙ぐんでたような……)
井倉の胸に動揺が走った。
「ハンス、遅かったじゃないか。彼女と何かあったのか?」
フリードリッヒが訊いた。
「いや。何でもない。彼女にレッスンしてただけだよ」
ハンスは素っ気なく応えるとソファーに座った。
「ところで、井倉君、レッスンはどうでしたか?」
「あ、はい。ハノンがなかなか上手く弾けなくて…叱られました」
項垂れて言う井倉にハンスはため息交じりに言った。
「音を出せたんならいいじゃない」
「え?」
その意味を測りかねて井倉は首を傾げた。
「ハンスも来たし、私はホテルに帰ります」
フリードリッヒが言った。
「はい。ありがとうございました。どうぞ、お気をつけて」
井倉が玄関まで見送った。
彼が帰るとハンスはようやくリラックスして黒木にココアを入れてもらって一口飲んだ。
「もうすぐお夕飯にしますから……」
エプロン姿の黒木が言った。今日は彼が食事当番だった。
「ハンス先生……」
突然、彩香がリビングに入って来た。
「何ですか?」
さきほどの気まずい雰囲気はなく、彼はにこにこと応じた。
「よろしければこれを……。さっきお買い物してた時、見つけましたの」
彼女が差し出した品物には、美しい包装が施され、緑色のリボンが掛けられていた。
「僕、今日は誕生日でもないし、何かをもらうような記念日でもないですよ」
ハンスは怪訝そうな表情で包みと彼女とを見比べた。
「ほんの気持ちですわ。これからお世話になるんですもの。どうぞ、受け取ってください」
「ああ、ありがとう。でも、これは受け取れません」
「何故です?」
「僕にはもらう理由がないからです」
「ならば、正規のレッスン料をお支払いしますわ」
そう言って、彼女は厚みのある封筒を重ねた。
「そうですか。ではレッスン料だけは受け取りましょう」
ハンスは封筒を受け取ると中から5枚の札を抜き、残りは彼女に返した。
「取り合えず、これは今月分ということで……」
「え? でも、それじゃあ……」
彼女が慌てる。
「何かご不満でも?」
「だってそれじゃ一回分にもならないんじゃ……」
「僕は僕のやり方でします。法外なレッスン料をもらう必要はありません」
「でも、それではわたしの気持ちが済みませんわ」
「何の気持ちですって? あなたが僕にレッスンを受けて感謝していると言うなら、結果を見せてください。あなたはまだ何も僕に見せてくれていません。それをお金で買うことはできないのです。あなたは、かつてあなたのお父さんがやろうとしていた同じ過ちを僕に対してしようとしている。その過ちに気がつかない限り、向上は望めませんよ」
「ハンス先生……」
彩香は俯いて唇を噛み締めた。
「僕は少し疲れました。夕食まで上で休んでいます」
そう言うとハンスは階段を上がって行った。
(彩香さん……)
井倉は何と言って声を掛けたらいいのかわからずにじっとそこに立っていた。
(どうやら僕の思い過ごしだったようだ。ハンス先生と彩香さんが、そんなことになる筈がない。すべては僕の考え過ぎだった)
井倉は妙にほっとしている自分がおかしかった。
(それにしても、ハンス先生も潔癖だな。普通なら、それくらいのプレゼント受け取ってしまうだろうに……)
井倉はハンスが置いていったカップを下げようと手を伸ばした。
「井倉」
唐突に彩香が呼んだ。
「何ですか?」
思わずピクッと手が震える。
「これ、あなたにあげるわ」
リボンの付いたそれを彼の手に押し付けて、彼女も急いで階段を上って行った。
「彩香さん、でも、これ……」
勢いで指がリボンに掛かった。するりと解けたリボンの先端に猫達がじゃれつく。
「彩香さん……」
呆然としている井倉を見て、黒木が声を掛けて来た。
「おい、井倉、先生達はどうしたんだ? 夕食ができたんだが……」
「あ、はい。今呼んで来ます」
そうして井倉も階段を上った。
食後、新しい生徒が二人やって来た。いずれも音大受験のため、ハンスに指導して欲しいという者達だ。
「ならば、まず私が見よう。ハンス先生のレッスンを受託するかはまず私のレッスンを受けてから決めさせてもらう」
黒木が呼びレッスンを行い、見込みのある者だけを斡旋するという。ハンスは希望者を全部引き受けると言ったが、それは既に物理的に不可能な人数に達していた。そして、その人数はこれからも増えそうだ。黒木の考えには妥当性があった。
「では、黒木さん、お願いします」
ハンスも結局はその考えに従った。
厳しい黒木のレッスンをクリアするには相応の実力と忍耐力が要求され、希望者はほどほどに調整された。ミーハーな希望者は容赦なく脱落して行く。中にはクレームを付ける者もいたが、相手が元音大教授の黒木だと知ると引き下がらない訳には行かなくなった。
そして、毎晩8時には、アイドルのYUMIが来て、秘密のレッスンを受ける。
ハンスは子どもには寛容だった。受験用でなければ、空いている限り、子どものレッスンを引き受けることにしていた。
そして、その夜にも、一件の申し込みを受けた。電話が掛かって来たのだ。
「え? 小学生の女の子? いいよ。そうだな。明日の5時にでも連れて来て」
ハンスはそう言って電話を切った。
「黒木さん、確か、明日の5時なら空いてましたよね?」
「ええ。今のところ……。しかし、大丈夫ですか? 立て続けにそんな……」
黒木が心配そうに訊いた。
「大丈夫。リンダに頼まれては断れませんからね」
そう言って彼は笑った。
翌日。午前中には再びフリードリッヒがやって来て、井倉のレッスンを行った。その間にハンスが彩香を指導し、黒木が家の仕事と事務を引き受け、美樹は書斎で原稿を書いていた。
午後からはほとんど空きがないほど、予定が詰まっている。
ハンスが彩香のレッスンを追え、上に上がって来た。フリードリッヒも井倉のレッスンを終えて、帰り支度をしていた。その時、ドアチャイムが鳴った。
井倉が玄関へ向かう。
「私は有住と申します。こちらに娘がお世話になっているそうですね?」
品のいい中年の紳士は帽子を取って挨拶した。
(有住? それって彩香さんのお父さん……)
井倉はすぐにハンスを呼び、客をリビングへ通した。が、娘を見た途端、彼は叫んだ。
「彩香! これはいったいどういうことなんだ? 見合いをすっぽかして、この私に恥をかかせるつもりなのか?」
「お父様」
彩香は呆然として父を見つめた。
(お見合いだって? 彩香さんが……)
井倉の鼓動はまた一段と高く跳ねあがった。
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